創薬のアイデアが生まれて、医薬品として患者さんに届く道のりは、10年以上かかることも珍しくありません。 だからこそ、その過程にある研究員の挑戦と発明をどう評価し、次のイノベーションにつなげていくのかー。
中外製薬は2025年、職務発明制度の抜本的な改正を行いました。製品だけでなく、研究員の発明によって生み出された「技術」そのものにも光を当て、より早期に、より納得感ある形で研究員に報いる制度へ。新制度の狙いと研究開発の未来に与えるインパクトを、法律の専門家として片山英二弁護士と、制度設計担当の知的財産部の佐藤裕介、研究現場の最前線に立つ堅田仁、それぞれの視点から改革の全貌に迫ります。
社員と企業の“協働”で生まれる発明を、どう報いるか
「職務発明制度とは、社員が生み出した発明の権利の帰属や、発明者への報奨のあり方を定めたものです。発明は、研究員個人の才能と努力だけでなく、企業の投資や支援があって初めて生まれる『協働の成果』です。日本の特許法は、産業の発展に向けて『職務発明』を奨励するため、会社が特許権を得る代わりに、発明者に『相当の利益』(報奨)を与える仕組みを定めています」と説明します。
片山氏は、日本の職務発明制度の特徴を他国の制度と比較しながら次のように語ります。
「アメリカでは、発明の対価は企業と従業員の雇用契約に委ねられ、力関係で決まることが多い。一方、ドイツでは、仕組み自体は日本と似ていますが、社員の貢献度を細かく点数化する必要があり、非常に運用が複雑。これらに対し日本の職務発明制度は、国のガイドラインに沿った手続きを踏めば、企業が自社の事業特性に応じて制度を設計できる点に特徴があります」
「15年後の報奨」では、情熱は支えきれないー「技術」に光をあてるために
職務発明制度は、優秀な人財を獲得し、産業発展に貢献しうるポテンシャルを持つ仕組み。しかし、中外製薬の研究現場における「リアル」は、必ずしもその理想通りに機能しているとは言えない状況にありました。旧制度には大きく分けて、「支払いのタイミング」と「技術への評価」という2つの課題があったのです。
「正直なところ、職務発明制度を意識して仕事をしている研究員はほとんどいなかったと思います」 バイオ医薬研究部の堅田仁は、研究現場の実情をそう振り返ります。
中外製薬では2006年以来、20年近く同じ制度のまま運用してきました。
1つ目の課題である「支払いのタイミング」について、知的財産部の佐藤は旧制度の課題を指摘します。「旧制度では、実績報奨の最初の支払いが行われるのは「発売から5年後」と定められていました。しかし、前述の通り新薬の研究開発には長い歳月がかかります。つまり、発明の着想から報奨まで、15年以上の期間がかかってしまうことが通常で、20年以上となるケースもありました」
堅田は、当時の率直な思いをこう語ります。「あまりに遠い未来の話で、自分の成果が評価されたという実感をタイムリーに得ることが難しく、次のイノベーションへのモチベーションには繋がりにくい制度設計だったと感じています」
片山氏も、製薬業界ならではの「時間の長さ」ともう一つの課題である「評価の難しさ」が大きな課題であったと指摘します。 「職務発明制度が、発明者にインセンティブを与えることで発明を活発にする目的だとすれば、もっと早い段階で報奨が行われる方が良いのではないか。この時間的な問題は、製薬業界として大きな課題でした。 また、創薬のイノベーションにおいては、革新的な技術が発明され、それを適用して具体的な抗体や化合物といった製品が生まれます。本当は技術がとても寄与しているにもかかわらず、従来の制度では物質特許にウエイトが置かれ、基盤技術を適切に評価することが難しかったのです。さらに、現代の創薬は部門横断のチームで行われますが、周辺で協力した人たちの貢献をどう評価するかも難題でした」
片山氏が言及したこの「基盤技術の評価の難しさ」こそが、旧制度に生じていたもう一つの大きな課題に直結していました。佐藤は、会社の創薬戦略と旧制度の間に決定的なズレが生じていたと語ります。「当社は独自の『創薬技術』を開発し、その技術を医薬品に適用する『技術ドリブン』創薬を掲げています。しかし、旧制度はあくまで『製品』を基準とする設計だったため、その基盤となる技術への報奨に十分に光が当たっていませんでした。成長戦略である『TOP I 2030』が掲げる『アウトプット倍増』という高い目標を実現するには、研究員の挑戦を後押しする制度に変えなければならない。その想いが、改正への強い動機となりました」
「より早期に」、そして「透明性と納得性」を高める仕組みへ
佐藤らが中心となり、前例のない制度改正プロジェクトが動き出しました。目指したのは、研究員の情熱を、次の挑戦へとつなげる仕組みでした。
改正の大きな柱は二つあります。ひとつは、報奨のタイミングを大幅に前倒ししたこと。製品上市後だけでなく、臨床試験で有効性が確認されるPoC(Proof of Concept)取得時にも評価する設計としました。
「自分たちの創った薬が、患者さんに『効いた』と証明された瞬間こそが、研究員にとって最大の喜びです。そのタイミングで会社からも評価されることは、モチベーション向上に直結します」と堅田は言います。
まさに、研究員が現場で活躍している間に成果を実感させ、その喜びを糧に次の発明を生み出す好循環を作る。それが新制度の狙いでした。
もうひとつは、評価の「透明性と納得性」を高めたことです。従来は一つの製品に対する報奨金を、関連する複数の特許で奪い合う「パイの取り合い」のような構造でした。これを改め、それぞれの特許ごとに固定額を支払う形式に変更。「技術ドリブン」を象徴する施策として、ブレークスルーとなる重要な「技術」そのものを評価する報奨枠も新設されました。 これにより、創薬プロジェクトの土台となる技術開発や、複雑な分子を製造する製法開発など、多様な領域の貢献がより適切に評価されるようになりました。
「技術特許の出願に携わった人と、それを標的に適用した創薬プロジェクトの担当者は必ずしも一致しません。物質特許だけではなく技術特許等の周辺特許が明確に評価されるようになったことは、研究員にとって不公平感を解消する大きな変化です」と研究員の立場から堅田は評価します。
今回の改正において、外部専門家である片山弁護士が「画期的」と評する点があります。それは、原則として過去に出願された特許にも新制度を適用するという判断です。
新しい制度の方が望ましいと考えるなら、過去の発明にも適用しようとする姿勢自体が、「他社にはあまり見られない大胆な取り組み」と評価します。
佐藤はマネジメント層や片山弁護士と議論を重ね、研究現場との意見交換も経て制度を作り上げました。その中で、「上市が近い製品については旧制度の適用を受けたい」という声も汲み取り、現場の納得感を重視した“ソフトランディング”が図られました。「当初は反発も覚悟していましたが、蓋を開けてみれば『良い方向に変えてくれた』という好意的な意見が多く、非常に心強かったです」と佐藤は振り返ります。
イノベーションを生み出す土壌として
新制度の導入から約1年が経過した今、堅田は研究現場からの期待をこう語ります。「技術ドリブン創薬をさらに加速すべく、最近は新規技術開発プロジェクトが増加しています。特許報奨という観点ではこれまで評価されにくかった「技術」にも光が当たることで、研究員がよりモチベーション高く革新的なテーマに挑戦できる土壌が形成されていくことを期待します」
片山氏も今回の改正を、企業の行動原理を研究開発の現場に“落とし込んだ”好例と位置づけます。
「『技術ドリブン創薬』を、研究開発の現場に具体的に『落とし込む』今回の改正は、企業の持続的な成長と企業価値の向上に真剣に取り組む、中外製薬の真摯なマインドが現れたものだと感じています。さらに、事業の特性に応じて制度を工夫できる現在の特許法を活用し、研究現場の実情を深く調査し、発明が生まれやすくなる制度を企業自らが設計したことは、製薬業界のみならず、他の業界の企業にも有益な視点を提供されたケースなのではないでしょうか。職務発明制度が中外製薬の創薬力をさらに支えていくことを期待しています」
中外製薬はイノベーションで患者さんに貢献する会社です。制度改正によって、研究員が適切な時期に報われ、その喜びが次のイノベーションを生む土壌になるー
「中外製薬は、ユニークな研究をしている会社であるだけでなく、制度の面でもユニークで、面白い会社だなと思ってもらえたらうれしいですね。そして、患者さんのためにイノベーションを追求する姿勢がこの制度を通じて伝わり、情熱ある研究者が集まってくれることを願っています」と佐藤は締めくくりました。
制度という「仕組み」を変えることで、研究員の「心」に火をつけ、未来の仲間を惹きつける。
中外製薬の新たな挑戦は、ここから加速していきます。
片山 英二(阿部・井窪・片山法律事務所)
2000年中外製薬の顧問弁護士に就任。日弁連知的財産センター委員長、日本国際知的財産保護協会会長、産業構造審議会知的財産政策部会特許制度小委員会委員、ミュンヘン知財法センター(MIPLC)教授などを歴任する。
現在阿部・井窪・片山法律事務所パートナーとして知財分野、企業法務分野で活動している。
堅田 仁(バイオ医薬研究部)
2011年中外製薬入社。専門は抗体エンジニアリング。富士御殿場研究所にて新規抗体技術開発や抗体創薬プロジェクトに従事。2021年にシンガポール子会社に出向し、グループマネジャーとしてタンパク調製機能をリード。2023年に抗体エンジニアリング担当のグループマネジャーとして帰任し、抗体関連プロジェクト全般の推進を担う。2026年より抗体創薬担当統括マネジャー。
佐藤 裕介(知的財産部)
2001年に中外製薬にキャリア入社。知的財産部で特許実務を担当、ロシュ赴任を経たのち、帰任後は企画・管理系の各種業務を担当。2018年からはマネジャーとして、中外の知的財産ポリシーや知的財産活動に関する社内外への発信、知的財産戦略の構築と運用等に携わり、2020年からは職務発明制度を含めた知的財産に関わる社内制度の構築と運用、知的財産権の管理、商標・著作権も併せて携わる。